老兵は死さず・・・

開陽台の直線道路

今になって考えると、学生時代ってのはかなり悠長なもので、7月の半ばになると、もう夏休みが始まり、それから一ヶ月半あまり、まったくもって、何もかもから開放された気分に浸れた。

僕が在籍していたのは、「すべり止め」に引っかかった四国松山の三流国立大学でだった。もともと生まれも育ちも埼玉なので、いわゆる「都落ち」なんて種族である。

6年制という特殊な学部なので、変わった輩(というより変質者)も多く、それなりに楽しい学生生活だったが、育った環境・土地の違いってのやはり侮れない。大学生活・バイト・恋愛、いやいや、交通習慣やら電車待ちの列、階段や歩道の歩き方、ATM待ち、いたるところに理解困難な習慣、ストレスが渦巻いていた。

そんな次第で、春夏冬、長期休暇となれば、とっととアパートを片付けて、埼玉まで逃げ帰る。当時の足はオートバイだけだったので、オートバイで帰る。遠回りして、何日もあちこちをツーリングして帰ることもあれば、高速を使って約1000km、まっすぐに日帰りすることもあった。

FZRに乗るようになってからは、愛媛ー埼玉間を何時間で走りきるか、なんてトライアルをよくやった。帰省の度に所要時間は縮まり、走り方はより過激になっていった。

大学六年の夏休みの始まり、いつもの按配で、メーターを振り切るような速度で午後の東名上り線をかっとんでいた。交通量も少なく、車のひとむれをパイロン代わりに掻き分ければ、また全開。それなりの緩急があり、飽きもせず、疲れもしない、そんな快調なペースだった。

岡崎を過ぎたあたりだったろうか、それまで単調にまっすぐっだった道が、ほどよく曲がりくねりだした頃だった。それは突然、なんの予兆もなく、予感もなく、訪れた。

緩い右のコーナーにスロットル全開で飛び込んだ瞬間、目前、二車線いっぱいに、長さが1車線分の幅はあろうかという角柱が何十本も散乱していた。右左の路肩には、既にそれらを跳ね飛ばしたのだろう、フロントノーズの潰れた車や、タイヤがバーストしてスピンしかかった車が立往生していた。

「チッ」と脳裏で舌打ちした。それは「もうだめだな」という諦めの舌打ちだ。アクセルを緩め、車体を直立させ、ブレーキレバーを握りしめたが、制動したって間に合うわけはない。

いつも思いうのだが、クラッシュする時って、なんて時間がゆっくり過ぎてゆくのだろう。コマおくりのように、一秒が100倍もの長さに感じられる。きっと人間の情報処理能力には、奥知れない予備力があって、咄嗟の際には、その演算回路が次元を変えるに違いないと僕は思う。

「しゃーない、まっすぐに突っ込むか」と諦めかけた時、材木の折れ目が見えた。僕より先にそれを跳ね飛ばした車が、角柱を「く」の字に折りながら、切り開いてくれた割れ目だ。

「行ける」と僕は思った。

ブレーキをリリースしながら、数十センチの裂け目を見据え、そこに飛び込んだ。飛び込みながら、視線をより前方に走らせ、次の行く手を決める。タイヤが木片を鈍い感触で踏み散らし、車体が震える。たいした衝撃じゃなかった。行く手に散乱した材木を縫って、一本のラインが見えた。

ブレーキ、リリース、ブレーキ、またリリース。速度が速度だけにスラロームというわけにはいかない。ほんの少し、突き進む方向が変わるだけだ。

フェアレディZがスピンして、ガードレールに張り付いていた。その脇を掠めた。行く手の路面には、もうまばらに材木の欠片が散らばっているだけだ。

特に身をかわすわけでもなく、それらは僕の後方へと飛び去っていった。

道はクリアになり、行く手の左の路肩には、荷崩れした材木を積載したトラックが停車していた。ドライバーはトラックの後方に立って、茫然自失としていた。

トラックを通り過ぎて初めて、僕はミラーを覗いた。潜り抜けた修羅場が、午後の強い日差しを照り返していた。

ブレーキに引きづられるようにして、オートバイは徐々に速度を落とした。僕は左の路肩に寄り、停車した。

サイドスタンドを出し、それに車重を預けた。車体の左側に降り立った途端、足腰からチカラが抜けた。その場にヘシャげるようにして、路面に座り込んだ。

後続の車が、材木に突き当たる鈍い轟きや、タイヤのスキール音がヘルメットの中で反響した。背筋に寒気が、腰のあたりに締め付けるような鈍い痛みが走り、足腰が麻痺したように感じた。

「このままじゃ、いつか死ぬな俺・・・」

「もうバイクはおりたい」と、その時初めて思った。

 

FZR1000

 

こいつは大学時代の3台目で、自分にとっては初のリッターバイク。

その加速は当時強烈だった。固い足のせいで、コーナーはきつかったけど。

 

FZR1000

 

 

 

FZR1000

 

 

FZR1000