Kのこと

LA

呑んだくれ、夜遊びして、自宅に帰りついたのは午前4時を過ぎていたと思う。帰るなりベッドに突っ伏した。「そういえば呑み屋で携帯がウナッてたなあ」なんて思い出して、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して覗き込んだ。

5件ばかりの着歴があり、そのうち3件は中学時代の同級生の清水からのものだった。「どうせ、『近場で飲んでるから出てこい』くらいの連絡だったのだろう」と気にも留めなかった。

メールボックスを開くと、やはり清水から、メールが一通届いていて、その「無題」のメールを開いた。

「今日、事故で孔明ちゃんが死んだそうです。上田君から連絡がありました。」と、そこには書かれていた。

孔明は、清水と同じく、中学時代3年間の同級生だった。”孔明”は言うまでもなく”諸葛孔明”の”孔明”。なんとも大それた”名前負け”である。”名は体を表す”との諺を思い起こしても、武勇・策略の士とはほど遠い。ただ、世の本質を見切り、自分の分際を弁えて生きる、そうした才覚には秀でていた。随分ひいき目に評するならば、「三顧の礼にも応じぬ晴耕雨読の孔明」とでも呼ぶのが適切だろうか。

彼と僕との関係には、「くされ縁」という一言がぴったり合う。その「くさった」関係の根底にあったのは、オートバイという乗り物で、そのオートバイ運転中の事故で、彼は死んだ。

僕等の付き合いの始まりは「カブクロス」だった。僕等の育った田舎では、中学生当時、どこの家にも「カブ」や「メイト」の一台くらいはあった。バイクに乗るのに免許証が必要なことも、それが16歳になるまで貰えないことも当然知っていたけど、目の前にオートバイなんて素敵な乗り物が転がっていて、かつ、いつでもそれを乗り出せる状況があって、血気盛んな中学生が、我慢なぞするはずがない。

親も親で、近所やら田んぼのあぜ道やらを走り回る分には、それを咎めたりはしなかった。駐在に見つかったって、「往還にはでるなよ!」と怒鳴られて済むくらいの、おおらかな時代でもあった。

僕の家の裏山には、工業団地用に赤土で土盛りされた造成地があり、そこにはいつまでたっても工場の立つ気配がなかった。そんな場所が近くにあれば、悪ガキどもにとって、恰好のモトクロス場と化すのは目に見えている。

中学入学と同時に親しくなったクラスメートの僕と孔明、そこに他クラスの悪ガキも加わって、中一の夏休みから「カブクロス」は始まった。

僕の家のカブと、孔明の家のメイト、それから清水が乗ってきていたのも多分メイトだったと思う。跳ね、飛び、転び、ひたすらに日が暮れるまで走りまわる。時にはコースを決めて競うが、問題となるのは”速さ”ではなく、ジャンプの高さ、テールスライドの深さや、バンク角と言った、見た目のハデさだった。

続く///

 

 

カマロとK

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GX400

 

いつかはレストアしなければならないのだけれど・・・

これは、死んでしまった古い友人から、その昔譲り受けたバイク。

 

GX400