老兵は死さず(2)

開陽台の直線道路

 

「もうバイクをおりたい」
その年の夏、東名高速で、コワい思いをした時、小学生の頃バイクに乗り始めて以来、初めてそう思った(FZR1000のコラムに書いた)。

そう思ったところで。そう易々とバイクを離れられるものではなかった。夏が過ぎ、恐怖の熱りが冷めるや否や、FZRを駆ってまた狂ったように走りだした。

ちょいと近所のコンビニ行くにも200km/hr。仮舗装のちょっとした段差でもホイールをひん曲げるし、バイク屋主催のツーリングがあれば、キチガイオヤジどもと競って、工事中のダートの上でも飛んだり跳ねたり、砂埃モウモウ。台風の近づく長浜あたりの海岸線でも、高潮を浴び、突風に煽られて対抗車線に吹き飛ばされながらも、5速全開。と、気違いぶりはとどまることを知らなかった。と、言うより、死がチラつくことで、走ることはより歓喜を増した。

よく言われる通り、四国の交通の流れは、間抜けなほどに遅い。二車線あろうが三車線あろうが、右も左も関係ない。皆がノラクラと、全車線を塞いで、身勝手なスピードでダラダタ走る。「速い者を先に行かせよう」なんて合理性は欠片もなく、「他人の邪魔にならぬよう」などという個人主義的配慮なんて、言い出す方が無粋である。脇道から幹線道路にでてくる時だって、「相手がブレーキ踏むのが当然だ」くらいの案配で、まともに一時停止もせず、ヒョロリと合流してくる。もちろん右左折なんて、ウインカーを一瞬でも焚く奴はまだましな部類だ。「ここらで車を運転してるのは猿ばかりだ」なんて、よく悪態をついては、地元出身の級友の顰蹙を買っていた。

そんなのらくらとした交通の流れが、走りの無謀さにより拍車をかけた。道路という道路、走っている車という車、バイクというバイク、落石くらいに考えて、一台残らず、抜き去るのが当然だった。

晩秋のある休日、独りでメロディーラインを走りに出かけた時も、いつも通り、そんな調子でカッ飛んでいた。

松山への帰路、八幡浜を過ぎたあたりだったろうか、緩やかに右に曲がってゆくコーナーで、走行車線と登坂車線を遅い車が二台並走して走っていた。その前方の道は開けていた。対抗車線には例によってノラクラと、何台も車が連なっていた。そんな時、決してアクセルは緩めない。並走した二台の間に抜き去るラインを見定めるや否や、アクセルを捩りきれるほど捻り込んだ。

軽く右にバンクしながら、並走する二台の車の間を、150キロ以上の速度差で、これ見よがしに駆け抜ける瞬間、外側の車が一瞬揺らいだ。「幅寄せしよう」なんて悪意はなく、そんなところをオートバイが駆け抜けてゆくなんてこと、ドライバーは想像だにしていないのだ。

並走する二台の車の車間は狭まり、サンドイッチの薄っぺらなハムみたく、そこに挟まれた。左側の車のドアミラーが、フェアリングを掠った。その瞬間、両側の車は僕の存在に気付き、左右に飛び、道を開いた。僕はそのままの速度で、二台の車の間を突き抜けた。

まあ、そこまでだったら、「よくあるいつものこと」に過ぎない。だが、突き抜けた瞬間、本当の恐怖は、やって来た。ドアミラーのフェアリングへの接触を契機として、ちょっとしたウオッブルが発生した。それはすぐ収束するものかのように、最初は思われた。ところが、バイクに加わった些細は衝撃は、次第に増幅して、オートバイ全体を揺るがし始めた。

「左右フルロックのウオッブルだが、コントロール可能・・・」なんて類いの振動ではなく、バイク全体が板バネのように、はじけ飛ぶくらいに揺らいだ。

なす術は何もなかった、ブレーキすら掛けることはできない。アクセルを緩め、ただそれが収まるのを待つよりなかった。せめて僕にできることといえば、精一杯、バイクから振り落とされないよう、しがみついていることだけだった。

幸運にも、速度の低下とともに、振動は収束していった。そのまま、路側に寄り、そこに呆然と立ち尽くした。先ほど追い抜いた車が、クラクションをかき鳴らしながら、僕の脇を通り過ぎていった。

今度という今度はバイクからおり立つこともできなかった。しばしバイクにまたがったまま、身動きすらとれなかった。

また、あの鈍く苦しい痛みが、背中に走った。
「やっぱり一旦バイクをおりよう」
その時心に決めた。

その二ヶ月後、僕はFZR1000を手放した。
「もう卒業して、東京へゆかなくちゃだし」と、バイク屋のオヤジにはありきたりな言い訳をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GX750

 

「無理をせず、ゆっくり走ろう」なんて考えて乗り始めたバイクだったけど・・・

FZR1000に乗っているうちに、走り方は日に日に過激になっていった。
「ダメかな・・」と思うようなことも、何度もあって、「このままだと死ぬな」という予感がした。
「しばし熱を冷まそう」と思い、大学(学部)卒業と同時にFZRを手放したのだが、バイクなしだといてもたってもいられない。
「この手の旧車なら無茶もしないだろう」と自分に言い訳して、それから三ヶ月もせずに手にいれたのがコレ。

 

GX750

 

 

 

GX750

 

 

XJR1300のキャブ流用

不要になったXJR1300の純正キャブを3連に改造して換装している