HDの男

ハーレーの男


 日本のバイク4メーカーが国内販売に苦慮している現状にあって、DUCATI・BMW・HARLEYといった外車メーカーは好調に販売実績を伸ばしているらしい。昨今の僕は、この手のバイクに乗ってる輩が大嫌いだ。

「レインボー」とかに集う復活組BMWは、よちよち教習所でお手軽大型二輪免許を手にしたリバイバルライダーの代名詞。こいつらは、三人くらいで群れて、スカイツーリングで北海道温泉巡りに行き、ススキノの夜を堪能して、「まりもっこり」とかを子供に買って帰るのだろう。

 DUCATIのアーバン兄ちゃん達はショップ主催のサーキット走行会に、必要もないタイヤウォーマーを抱えてやってくる。「RIDER'S CLUB」を座右の書とし、「ヒザ刷り特集」とやらの能書きを熱心に読んでくるのだろうけど、実践が理論に付随せず、サーキットなのにクラクション鳴らされちゃう。

 チョビ髭理容師風のHarley軍団は、北海道ツーリングにキャンプ用品をゴッサリ積んだアストロのバックアップ車付で出没した。静謐なキャンプ場で大バーベキュー大会を催し、わめきちらし、はしゃぎ狂っていた。

 ファッションとしてオートバイに興ずるこうした連中に比して、かつて見かけた「BMW乗り」・「DUCATI乗り」・「HD乗り」は神聖ですらある。

 もう一昔も前のこと、松山から広島へのフェリーの船内で語り明かしたBMWの青年は知的だった。自動車メーカーのエンジニアだという彼は、直列4気筒エンジンとシャフトドライブのカップリングというK100のレイアウトの素晴らしさについて切々と語り、「船をおりたら、どうぞ乗ってみてください。バイク観が変わりますよ」と僕に試乗を勧めた。フェリー下船後に、黎明の広島港の駐車場を一回りさせてもらっただけだが、彼のオートバイの、その排気音がいかに心地よかったことか。その優しく、柔らかな乗り心地、それすなわち、彼の人柄を物語っていた。

 シルバーのベベル900SSは朝もやのビーナスラインを、Vツインの爆音をとどろかせながら走り去っていった。それは僕の記憶の中の、最も美しい絵画である。あれは19歳の夏、美ヶ原まで一泊でツーリングにでかけた時のこと。白樺湖畔でキャンプした翌朝、早起きして、夜明けのビーナスラインを走りにでかけた。霧ヶ峰あたりを何度かローリングした後、車山を見上げる駐車場で、タバコをくわえながら一息ついていると、朝靄の中から例のVツインの排気音が幽かに轟いて来た。排気音は、「それ」が近づくにつれ、次第次第に、轟きを増した。そしてついに、美しいリーンウイズで深くバンクしたシルバーの900SSが、コーナーの向こう側から立ちいでた。DUCAを駆っていたのは、黒いレザースーツを身にまとった、壮年らしきライダーだった。彼は僕の前を通りすぎる瞬間、こちらを向いて小さく会釈した。僕は右手を挙げてそれに応えた。シルバーの900SSは、短いストレートをシフトアップしながら走り抜け、赤いブレーキランプの瞬きを残して、また朝靄の中へ消えていった。

 宗谷岬で出会ったのは、HD 883Rを駆る女性。長い髪を一つに束ねた彼女はハーレーの荷台に山ほどの荷物を積み込んでツーリングしていた。あまりの荷物の多さに「長旅なのか」と尋ねると、「僅か10日たらずのツーリングだ」という。「ワンピースやハイヒールまで積んでる訳じゃないんだろ?」とからかうと、「これも修行のうちで・・・」と意味ありげに微笑しながら答えた。細い肩と折れそうに頼りない腕で、唇を噛みしめながら、鉄の塊を取り回す彼女の横顔には、僕が失いかけている、大切な何かが輝いていた。

 もう一台のHarleyは、台風がもうそこまで近づいている日高の町の、「道の駅」で見かけたローライダーの男。横殴りの雨の中をツーリングしているバカなんて、僕のほかにはいないだろうと思っていた。早朝に根室を出発し、日勝峠を何とか越えた僕は、くたくたに疲れ果て、道の駅の軒下にうずくまっていた。そこへ彼と彼のハーレーが現れた。雨のせいで心許なくミスファイアしている彼のオートバイは、駐車場へ入るなりエンストした。彼はあきらめたようにオートバイからおり、ゆっくりと押し始めた。重い鉄の塊を力ずくで押し、道の駅の建物の軒下までたどり着くと、車体をサイドスタンドにあずけ、ホッとしたようにタンクの水滴を撫でた。ヘルメットを脱ぐと、精悍に日焼けした、整った顔立ちが露わになった。彼はレインウェアの胸元を開き、首に巻いてあった赤いバンダナを外した。そして、呆れ果てたような表情で空を仰ぎ見ながら、バンダナの雨を絞った。その仕草は、いかにもキザだったが、どんな言葉でも名状しようもないほどに、カッコよかった。

 彼等、彼女等は一様にして「ひとり」だった。そして彼等は皆、他者の目に映る自分よりも、自分自身に対する美しさを問題としていた。自分なりの正当さ、かっこよさであり、自分の生き様としてのけじめでもある。彼等の行動・姿勢は、真に「鉄筆(stilus)」を意味する「スタイル」に裏打ちされていた。

 と、ここまで書いて、今更ながら気がついた。「オッサンBMW・ミーちゃんDUCATI・理髪屋Harley」は自分の中に潜む「脆弱さ・醜悪さ」の外化でもあるのだと。「逍遙の深淵・速度の魅惑・孤独の崇高」をべったりとした日常性において咀嚼してしまう堕落なのだと。そして、彼等に対する虚勢としての嫌悪なぞ、ただ異種であるだけのファッションにすぎない。感情においても「沈黙は金」、黙しつつ、私的な真実にのみ耽溺する美学こそ貫かれるべきである。

 僕はきっと、僕という意識のある限り、彼や彼女のことを忘れない。そして、この記憶がただの「昔がたり」にならぬよう、僕も自分を戒めてゆこう。彼等は、今日もこの地平のどこかをオートバイで彷徨っているに違いない。なぜって、オートバイと一緒じゃないと、この世界は輝かないことを知っているから。

 

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