夏を泳ぐ青

 

 


「太陽のせい(c'ètait à cause du soleil)」という、ムルソーの科白の呪縛にとらわれ始めたのは、いったいどの夏だったろうか。あの夏、ふと立ち寄った喫茶店をでて、盛夏の午後の陽光を眼をしかめながら見上げた時、久しく忘れていた、その言葉が蘇生した。同時に、その瞬間から、夏はただ、偉大なだけの高揚として、僕を素通りしてゆくものに、置き換えられた。


  l'absurde(不条理) という言葉の思念をまさぐるとき、いつも思いだすのは、カミュがその対比として、ヤスパースらのpansee existentielle を指して言った「不条理を見つめていながら・・・・ぎりぎりの段階で飛躍をとげてしまう」という一言だ。人生のすべては等価かつ無価値であり、しかしながら、またそれ故に、その混沌の中に居場所を求め、無意味な現実に対峙し続けようとする止揚の連続においてしか、「生きる」ということは具現できない。

 

 今年、宗谷岬の駐車場で、HARLEY883Rを駆る女性に出合った。荷台にテントやらシュラフやらを山積みにした彼女は、まだ未分化な眼差しで、自分の居場所を探して、彷徨っていた。諦念のない夏を、彼女は確かに捕え、夏の「青」を笑いながら泳いでいた。美しいと思った。

 

 走り去る彼女の後ろ姿を見つめながら、「またいつか、どこかで会うこともあるだろうか」と思った。そのとき、売店からこぼれ落ちていたBGMはDon Mcleanの「American Pie」だった。



 

開陽台ドットコム トップページ へ