クッチャロ湖に懸かる月

Ein Silberreiher bei Mondschein auf dem Kutcharosee

 

月夜のクッチャロ湖

 

 満月よりは少し欠けた上弦の月が、湖上の中天に懸かっていた。

「今夜はきっと、月が湖に沈むよ」と、僕は言った。

 茜は、僕の隣に立って、雲ひとつない満天の星空を見上げた。天の川が、夜空のほかの部分とは、明らかに違った光の密度で、夏の大三角から流れ出していた。
 対岸の丘陵は月明かりに照らされて、空との間にくっきりとした稜線を描いた。その月影の中で、湖面が輝く。近づくと、湖水は、浮き立つ水蒸気に、淡く霞んでいた。

「翠に、いつか話そうと思っていたのだけど、クッチャロ湖で一番美しいのは、日暮れよりも、湖に沈む月なんだ」と、僕はつぶやくように言った。

 十五夜を過ぎたばかりの月は傾いて、黄金の光条を湖面に落とす。月光の帯は、太陽の光のようには散り広がらず、闇に窪んだ対岸から、細波の湖面を一条に滑り、僕等の足元を照らす。夜風がにわかにそよいだが、それは湖面の水煙を追い払わぬほどに微かだった。
 湖に向かって伸びた桟橋が、波を受け、チャプン、と音をたてた。湖の南岸の道を走る車のヘッドライトが、夜を貫いた。

 

湖水にかかる月

 

 昼間、カモメ達が翼を休めていた桟橋に、僕は足をかけた。コン、という足音が響いた途端、突然闇の中から、バサバサという羽音がして驚かされた。ウミネコよりは一回り大きな鳥が、桟橋の舳先の闇の中から飛び立った。おそらく自分に近づいてくる僕等を警戒したのだろう。月明かりに照らされた白い翼の鳥は、カモメよりは大型で、群れていないことから、鷺の類だろうと僕は思った。鳥は何度か羽をばたつかせて飛翔すると、カン高い泣き声を一声だけ残して、闇の中へ飛び去っていった。

 再び静寂の中で、コンコンと、桟橋を渡る僕等二人の足音だけが響いた。湖面に伸びた月明かりの光条は、どこへいっても僕等の足元に向かって伸びてくる。光の帯は、僕等が一歩進むたびに、月を中心に転回し、僕等を追いかけてきた。水面の光条に足を伸ばせば、月光の上を渡って行けそうな気がした。そんな童話をかつて聞いた事があるような気がしたが、ガラリヤ湖のイエスの話くらいしか思いつかなかった。戯れに、桟橋から湖上の光の帯へと足を伸ばしてみた。それを見ていた茜の微かな笑い声が、背後で響いた。

 

一条の月光


 その時、先ほどの鷺が、ちょうど僕等の頭上で鳴き声を発した。見上げると、広げた白い翼に、湖面の輝きを受け、闇に浮き立ちながら、羽音も立てずに、大きな輪を描いて旋回していた。鷺は、僕等の頭上をひと回りした後、対岸の山稜に掛かる月へ向けて、まっすぐに湖上を滑空していった。そして、月の光の中へ、飛び込み、そのまま、消えた。少なくとも、僕等は二人とも、その飛影を見失った。その瞬間、突然、月が輝きを増し、闇が光った。

「消えた」と、茜が言った。

「消えたね」と、僕は答えた。

 それを、ただ月光に眩惑され、飛影を見失っただけと考えるか、或いは昂ぶる心にまかせ、魔法や奇跡とするか、それは僕等の自由だった。ただ、それが奇跡である必然は、どうやら、今の僕等にはなかった。

 

山稜に沈む月

 

 やがて月は、湖上に落とした光条を次第に弱め、燃えさしのように、対岸の丘陵に沈んだ。輝きを増した満点の星を、僕は見上げた。日暮れを「たそがれ」というように、月の沈んだあとの夜の輝きを、うまく言い表す言葉はないだろうか。しばし茫洋と星空を見上げながら考えてみたが、見つからなかった。「落月屋梁」というのが、とりあえず、いまの気分に、ほど近かった。

 

 

月の沈んだクッチャロ湖

 


 

クッチャロ湖の夕暮れ

 

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