散り急ぐ桜

 

W1と桜

 

「私の前世はツバメだったの」

 そんな彼女の言葉を思いだしながら、林道の長い下り坂で、オートバイを速度に乗せたまま、ギアをニュートラルに入れ、エンジンを切った。慣性と重力だけで、僕は峠を下り始めた。ヘルメットのシールドを跳ね上げると、風がヒューと笛のように泣きながら、頬を流れた。梢のさざめき、樹液の香り、斜陽を照り返す若葉のきらめき。エンジンの轟きに怯えていた森の息吹が囁き始めた。


 僕と彼女はよくこんな風に「慣性レース」をした。下り坂でエンジンを止め、惰性だけで走れる区間を二台のオートバイで競うのだ。 できるだけ速度を殺さず、空間を抉り取るようにカーブに倒れ込む。腰のあたりによじれるような遠心力のうねりを感じるとき、彼女はツバメだった自分を思い出すのだそうだ。

 坂道を下りながら、谷間を急峻に降下してゆくツバメの視界をイメージしてみる。谷のうねりに沿って深く身を翻すと、脳天から体を斜めに貫く加速度を感じる。風を孕んで、肩甲骨のあたりで、退化した翼が震える。若葉のトンネルをくぐりながら、ハンドルから両手を離して大きく広げ、目を閉じた。瞬間、確かに僕はツバメになり、うねる峠道から飛び発って、もう何処へでも、自由な軌跡で、飛んでゆけると感じた。

 

R1と桜

 


 谷間を下るにつれ、青を藍に、影を闇へ、森は装束を替えてゆく。路肩に咲いた一群れの一輪草だけが、かろうじて白く、まだ光を孕んでいた。谷底には間伐された木々が横たわり、せせらぎを渡る風が大鋸屑の匂いを運んできた。道は勾配を緩め、平坦になり、緩やかな登り勾配に転じた。オートバイは慣性を失ってゆき、やがて静止した。左足を地に着き、空を仰ぐと、仄かに赤みを帯びた雲が、梢の間をせわしく渡っていった。足元に目を落とすと、アスファルトの裂け目から生えでたシロツメクサが頸をしな垂れていた。

 エンジンに火を入れると、排気音の野太い轟きが谷間を貫いた。それに応えるように、木立はうねるような身振りで梢を揺らし、風を巻いた。ヘルメットのシールドを下ろすと、森の声はくぐもり、闇は濃さを増した。アクセルを緩やかに開きながら、僕はオートバイを発進させた。

 

XS-1

 

 次の峰へ向け急勾配の林道を登りつめていった。頂が近づくにつれ、黄昏れの冷気が指先を凍えさせたが、空は明るさを取り戻しつつあるかのように思えた。三日月が南西の峰の頂に、ぼんやりと透きとおっていた。

 尾根の間を西へ向けて回りこんでゆく、深く、平坦な右カーブを抜けた瞬間、突然、世界がオレンジの光に満たされた。朱色に膨張した太陽がまっすぐに谷間をくぐりぬけ、僕の眼を貫いた。「えっ」と、次の瞬間、僕は思わずアクセルを緩めた。夕陽を照り返すアスファルトの坂道の、道幅いっぱいに、砂利のような「白い何か」が散乱していた。慌ててブレーキを握ると、フロントブレーキがいとも簡単にロックして、足許を掬われた。オートバイが静止すると同時に、僕は右手で庇をつくってシールドに当て、日差しを遮り、凝視した。

 

R1と桜2


 白く、ほの赤い、無数の小片の蠢き。風に追われ、舞い上がり、巻き立つ・・・。それは道一面に散った、桜の花びらだった。西の方角以外の三方を尾根に阻まれた日陰に立ち並び、咲き遅れた桜の並木が、まさに今、風に吹かれて、その花びらを、滝のように散らせていた。それも八重ではなく、一重の山桜。およそ一月も咲き遅れている。花びらはアスファルトに降り、沢のように、白く渦巻きながら、坂道を流れ落ちてきた。花びらは、僕の両脇を通り過ぎると、バックミラーの薄暗がりの中に、紙石鹸のように儚く、おぼろに溶け落ち、消えていった。


花は散り際

 

「オートバイじゃないと世界が輝かないから」

 僕はまた彼女の言葉を思い出していた。 たちどまって見渡す景色ではなく、オートバイで走りながら、置き去りにしてゆく瞬間の連続こそ美しい。その景色が美しければ美しいほど、彼女はその場所にとどまろうとはしなかった。

 僕はクラッチを放し、アクセルを捻り込んだ。オートバイは花吹雪を掻き分けて、強く風をはらんだ。こんな些細な出来事だって、きっとひとつの奇跡なのだと僕は思う。日陰の花と、夕暮れと、気まぐれな風の、重なる瞬間。それは数多の可能な出来事の中で、唯一つ起こりえた偶然で、あとはそれを受け入れる魂のありかた次第なのだと、僕は思った。

 

 ---------------------「あはれてふ ことをあまたに やらじとや 春におくれて ひとり咲くらむ」

 

 

R1と桜 3

 

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