彼女の赤いオートバイ

霧多布

 

 一昨年の彼女と二人でのツーリングも終盤、釧路近くの漁港で、埠頭にオートバイを停めて休んでいるときに、些細なことから口論になった。口論の発端は、他愛もなく、彼女のオートバイの荷台のロープがほどけかけているのを、僕が注意したことだった。

 ひとたび諍いになると、彼女にはいつも、彼女なりの理というものがあって、それは他の誰とも共有しようはないのだけれど、ただ支離滅裂なのではなく、不思議と首尾一貫しているので、よけいタチが悪かった。言い合いの頃合を見計らって、こちらが折れたと気づかれずに、上手く折れないと、例の、どこからでも飛び降りる行動に奔るのが彼女の常だった。

 このときも、僕は「折れる」タイミングを見失い、彼女は勢いにまかせて、埠頭から海に飛び込もうとした。その彼女を取り抑えながら、その後の大事を引き起こす引金を引いた自分の台詞、それだけは忘れえようがない。「人を心配させるやり方でしか事を起こさないのは、ただのヒステリーだよ」と、僕は言ったのだ。

 僕の一言に彼女は強く唇をかみ締めて、憎悪に潤んだまなざしで僕をまっすぐに睨みつけた。僕は正直、「しまった」と思った。こうなるともう、彼女の性格上、行きつくところまで行かないとおさまりがつかないのだ。彼女の瞳は僕をまっすぐに見据えたまま、見る見る涙であふれ返ってきた。「すまない」と開きかけた僕の口元へ平手打ちが飛んできた。

 彼女はそのまま振り返って、オートバイのところまで歩いていった。今にして思えばそれは、いくらでも取り押さえようがあったはずの、実にゆっくりとした足取りだった。彼女は自分のオートバイにまたがってセルスターターでエンジンをかけると、バックミラーにかけてあったヘルメットを手に取って放り投げた。その瞬間、僕は初めて、「やばい」と思った。ヘルメットは「ゴン」と、一度だけ鈍い音を立てると、あとはカラカラと乾いた音を残して、埠頭の上を転がっていった。

霧多布

 

 僕が彼女の方へ駆け出すのと同時に、彼女はギアを一速に蹴り込んで、オートバイを急発進させた。埠頭の先端へ向けて彼女はまっすぐに加速していった。埠頭の突端はまっすぐ水平に、数メートルの落差を作って海へ開いていた。一瞬クラッチを切って、確かに彼女はギアを2速に掻きあげ、なおもアクセルを開いた。その直後、「ウォーン」と、オーバーレブするエンジンの唸りを残して、彼女と彼女のオートバイは、埠頭の先端からまっすぐ宙に飛び立った。

 オートバイと彼女はまっすぐに屹立したまま、海へ飛び出してゆき、いったいどれほどの距離を滑空したのだろう、彼女の姿が、埠頭の先端の向こう側で見えなくなった瞬間、ザバーン音を立てて、大きな水しぶきがあがった。

 僕はしばらく呆然と立ち尽くしていた。我に返った瞬間、心臓がバクバクと音を立てて脈打ち、首筋に張り詰めたような鈍い痛みがはしった。僕は埠頭の突端向けて慌てて駆け出した。全速力で走った。突端が近づくにつれ、彼女の落下が水面に広げた波紋があらわになった。僕は、見たくない、と思った。思いながらも、走るよりなかった。

 息せき切らして、突端にたどり着いたとき、海面の波紋はすでに波に打ち消されていた。十メートルほど先の海面に、赤いものが浮いていた。それは彼女のオートバイに積まれていたタンクバッグだった。さらに十メートルほど先の波間に白いものが動いた。次の瞬間それがもがく腕だとわかった。

霧多布

 

 埠頭と海面には、2メートルほどの落差があった。僕は確かにそこで靴だけは脱いだようだ。慌てちゃいけないと思って、水面下に消波ブロックも何もなさそうなのを確認し、一度深呼吸してから、再び大きく息を吸い込んで、海に飛び込んだ。いや飛び込んだのではなく、おそるおそる、足から飛び降りたのだ。

 あまりの水の冷たさに心臓が止まるかと思った。もちろん足など底につかなかった。僕はコンクリートの埠頭にしがみついて、もう一度彼女の方向を確認したが、波のうねりに阻まれて、彼女の姿は見えなかった。
僕はとにかく沖に向けてまっすぐにクロールで泳ぎ出した。泳ぎだしてすぐにジーンズくらいは脱げばよかったと思った。目は痛くて開けたままではいられなかった。息継ぎの度に薄目を開いて周囲を確認した。とにかく泳いで泳いで、途中赤いタンクバックが僕の右脇をすり抜けて行くのを確認した。

 僕は平泳ぎになって彼女の姿を探した。ジーンズが張り付いて思うように足が動かない。右手の沖に白いものが動くのが見えた。僕はその方向向けて、また目を閉じてクロールで泳ぎだした。もう一度平泳ぎになって僕は彼女の姿を探した。僕のすぐ目の前、数メートルのところに、確かに人の顔の肌色が見えた。彼女はこちらを向いていた。こちらを向いて、驚くほどゆっくりとしたリズムで、両手で水面を掻いていた。溺れている様子など、微塵もなかった。

 僕が目の前まで泳ぎついても、彼女は無表情に放心した視線でこちらを向いたまま、立ち泳ぎしていた。
「だいじょうぶか?」
彼女は小さくうなずいた。
「ケガは?」
彼女は首をゆっくり横に振った。
僕が彼女の脇の下に腕を回すと、なんだかばかばかしくなるほど冷静に、
「平気、自分で泳げるから」と、彼女は言った。

 彼女は埠頭の方向を見据えると、そちらへ向けて、ゆっくりと平泳ぎをはじめた。僕は、ぐったりとした疲労感に襲われながら、彼女の後を追った。ジーンズを潜り抜けてゆく生ぬるい水の感触が、なんとももどかしかった。

 埠頭の方へ戻りながら、波間に浮いている、彼女の赤いタンクバックを拾った。埠頭伝いに泳いでゆくと、岸壁が階段状になっている部分があった。まず、僕がそこから埠頭に這い上がり、次いで僕の手に引かれて、彼女も岸にあがった。途端に、身体じゅうの力が抜けて、僕はその場に倒れこんだ。彼女も息を切らしながら、僕の隣に仰向けに寝転がった。

霧多布湿原

 

 沈んでしまった、彼女のオートバイは、もうどうしようもなかった。ただ幸いなことに彼女はかすり傷ひとつ負っていなかった。

 その後、僕は、タンデムシートの荷物の上に、さらに彼女を乗せて、最寄りの町へと向かった。ノーヘルで町まで走っている間に、びしょ濡れの髪も衣服もすっかり乾いた。辛うじて拾い上げた水浸しのタンクバッグと、彼女の裸足の足だけが、出来事の名残を残していた。

 町の外れに公営の温泉保養施設見つけ、フロントで尋ねると、付設の旅館に空室があるという。宿泊の手続きを済ませ、彼女を迎えに、オートバイのところまで戻ると、彼女はまだオートバイのシートの荷物の上に、腰掛けたままでいた。彼女の背後には、シルバーと赤、二つのジェットヘルメットが、ぶら下がり、ガソリンタンクの上には、彼女のびしょ濡れの赤いタンクバックと、僕の濃紺のタンクバックが、嵩高に積み上げられていた。前方のタンクバックの山と、後方の彼女とが、ふたこぶラクダのコブのように盛り上がり、その間に、さっきまでそこに居たはずの僕が、スッポリそのままの形で抜け落ちていた。オートバイのか細いサイドスタンドが、その全体を支えていた。

「ねえ」と僕は、歩み寄りながら、彼女に声をかけた。俯いていた彼女は、面を上げた。
「ねえ、可笑しいよ、そのオートバイ。ほら、隣の車に映ってるから見てごらんよ」と、オートバイの隣に停められた黒いワンボックスの車を指差して、僕は言った。彼女は、振り返って、黒いワンボックスカーの側面一杯に映し出された、自分とオートバイの姿を見た。
「ほんとだ、変なの」と、はにかんだような笑みを浮かべながら、彼女は僕の方を向き直った。そして、すぐ次の瞬間には、浮かれすぎた自分の笑顔を恥じるように、彼女は再び固い表情に戻った。こんな時、こんな風に笑う彼女、激昂のあと、最初に見せる束の間の微笑は、いつでも、この世のものとは思えないほど美しかった。

霧多布湿原

 

 僕等は部屋に荷物だけを置いて、すぐ大浴場へ向かった。二人とも、塩漬けの身体を風呂で洗い流し、宿に備え付けの浴衣に着替えた。部屋に戻ると、まだ陽も高いうちに床のべをして、二人ともそこに寝転がった。

 長い時間、寝転がっていても、僕は眠りに誘われることはなかった。彼女も僕に背中を向けて、窓の外をじっと見つめたまま、眠れずにいるようだった。彼女の背中越しに、窓の外の一日だけが足早に暮れてゆき、僕等は一言も言葉を交わさなかった。

 夕刻六時過ぎになって、部屋の電話のベルが鳴った。夕食の支度が整った旨の連絡だった。尋ねるまでもなく、彼女は、僕も、食事など食べる気分ではなく、適当な口実をつけて断った。「ビールでも飲むかい?」と、僕は部屋の冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら尋ねた。彼女は首を小さく横に振っただけだった。ビールのプルタブを抜くピシュッという音がやけに大きく部屋に響いた。僕はうつぶせ寝でビールを飲み、彼女はずっと僕に背中を向けたままだった。いつの間にか彼女は軽い寝息をたて始めた。その寝息に安堵をおぼえた途端、僕は深い眠りに落ちた。

霧多布湿原

 

 いったい何時になっていたのだろう、彼女のすすり泣く声で、僕は目を覚ました。彼女はずっと泣いていた。
「どうした?」と、僕が尋ねても、彼女は何も答えなかった。
「おやすみ」と、僕は言ってみた。
「おやすみ」と、掠れた声で彼女は答えた。そのまま長い沈黙の時間が流れた。時折、彼女の鼻をすする音が部屋に響いた。僕がまた、眠りに落ちかかる頃、
「おぼれるって、溶け落ちることだと思ってた」と、彼女はつぶやいた。
「何?」と僕が聞き返すと、「おやすみなさい、ごめんなさい」と、彼女は言った。
彼女のすすり泣きが寝息に変わるのを聞き届けて、僕は再び深い眠りに落ちた。

 その翌日、彼女は釧路空港からの飛行機で帰路についた。僕は彼女を空港まで送ったあと、苫小牧までひとりオートバイで走り、フェリーに乗って帰路に着いた。こうして、二人一緒の最初で、最後の北海道ツーリングは終った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霧多布

 

霧多布
霧多布にて

 

 

 

霧多布
霧多布にて

 

 

 

霧多布
霧多布にて

 

 

 

霧多布
霧多布にて

 

 

 

霧多布付近にて
霧多布にて

 

 

 

霧多布湿原
霧多布湿原

 

 

 

霧多布湿原
霧多布湿原

 

 

 

霧多布湿原
霧多布湿原

 

 

 

琵琶瀬よりアイヌ岬を望む
琵琶瀬よりアイヌ岬を望む

 

 

 

あやめケ原
あやめケ原

 

 

 

あやめヶ原
あやめケ原

 

 

 

あやめヶ原
あやめケ原