自らを殺める

 

 夕刻、フェリーは苫小牧港へ入港した。オートバイの下船は、いつも自動車の後回しにされるので、フェリーから下船すると、もう日暮れまで一時間もないような時間となる。なんとなく夜道を走る気分でもなく、かと言ってこのまま苫小牧に留まるのも旅心がないので、とりあえず札幌まで走り、札幌駅の近くに宿を取ることにした。


 駅前のホテルに着き、ベッドに寝転がり、テレビのスイッチを入れた。天気予報を見ると、幸いなことに、ここ数日は晴天が続く見込みらしい。天気予報に続いて、全国ネットのニュース番組となり、政治がらみの短いニュースがいくつか続いた。ロードマップを眺めながら、音声だけ聞いていると、やがて、高校生が自殺した、というニュースに変わった。一昨日、東京都内の名門女子校の生徒二人が一緒に、マンションの屋上から飛び降り自殺したらしく、その事件に纏わる事後談を伝える内容のものだった。


「恵まれた生活環境といい、学校での成績の優秀さといい、二人ともに、さしたる自殺の動機なぞ見当たらない」。ふと、テレビに目を向けると、脂ぎった中年の女性キャスターが、したり顔でそう語っていた。次いで、その筋の専門家を気取る、嗄れた社会心理学者風の手合いが登場し、キャスターとのやり取りが続いた。


 そこでキャスターらが語る、「悩みのない死」だとか、「平凡さの中でヒロインになれる」だとか、「大人にはわからない青少年の苦悩」だとかいう、魂のやわらかさを失ったコメントは聞くに忍びなく、テレビのスイッチを切った。およそ、このような、死者を言葉だけで、食い物にして生きる輩に対して、死に行く者は比べようもなく高貴である。


 死は道理もなく、あるときふっとやってくる。ふっとやってきて、今日を生きる、という当座の妥当性を一蹴する。ある心の頂、或いは奈落にあって、掴んではいけないはずの「それ」が、突然立ち現れるのだ。


 今日という朝に目覚め、なんでもない一日を始める。朝の身支度に追われながら、顔を洗おうと掬った水が当たり前のように掌を零れ落ちてゆく。たった、それだけの出来事が突然、どんなふうに彼女達の存在全体を揺るがすかを、この中年ババアどもは、知る由もないだろう。 そんな寝起きの些細な出来事に気を奪われているよりは、ゴミ袋を所定の場所に、所定の収集時間までに、ついでにペットボトルの瓶とキャップまで、せいぜい分別し、持って行くことに、毎朝大忙しなのだ。 そこには、人間の崇高さの欠片もなく、動物としての感情のうめきもない。スカスカの知性・感性の促すまま、虚構としての人間に埋没することに懸命なのだ。死にゆく少女たちにとっては、この大衆の真骨頂のようなババアどもこそ、見るもおぞましい、自殺を促す、汚物に過ぎない。


「持ってる世界そのものが違うから」と、よく彼女は言った。それはまるで、異国の暴徒の中に、ただ一人放りこまれた聖者のようだったろう。概念を失った言葉はもはや、騒音に過ぎず、それはただ、わけのわからぬ焦燥だけを喚起する。そして彼女は、他者に出会わなくてすむ場所を探す。自分と世界に折り合いがついても、他者と自分との折りあいはつかないのだ。全てにおりあいがつく場所があるなら、それが死である。或いは他者全体の虐殺である。彼女達が虐殺ではなく自らを殺める点において、このような自殺は抗いがたく崇高なのだ。


 彼女の死は、ふと忍び込んで存在をさらってゆくような、そんな死ではなかった。真っ向から、生を、死を直視し、そして、それをねじ伏せて凌駕してゆくような、そんな「自殺」であったと考えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌

 

札幌の夜景
札幌の夜景(札幌駅より時計台方向)

 

 

 

札幌駅より石狩湾を望む

札幌の夜景(札幌駅より石狩湾を望む)

 

 

 

夕暮れの札幌

札幌の夕暮れ

 

 

 

遠く神威岬を望む

遠く神威岬を望む

 

 

 

羊が丘
羊が丘

 

 

 

羊ヶ丘のクラーク像
羊ヶ丘のクラーク像