北限へ至る道

宗谷岬とZ1

 

 オホーツク沿いの国道を、茜は結構なスピードで走った。僕は彼女をせっつかない程度の距離をおいて、その背後を走った。
「去年の翠はこんなペースで、茜と一緒に走れたのだろうか」と、僕は思った。
 翠とのツーリングでは、いつも僕の後ろに彼女が居た。バックミラーの中に映る彼女を見ながら、いつも僕は走った。そして今、僕は茜に導かれるようにして、その背後を走る。茜のバックミラーには僕の姿が映っているはずだ。そして僕のミラーには、夜明けの道の虚空だけが映し出されている。

 いったい想い出というもののどこに、隠し立てのない、その時々の、ありのままの真実が残されているのだろうか。たとえば僕は、一昨年の夏の、翠とのツーリングを思い出す。それはきっと正当に評価するならば、悦楽よりも、むしろ苦痛に満ちた旅だったに違いない。その途上の諍いで、どれだけの怒りを僕は覚え、どれだけの金切り声と涙で彼女は僕に応えたろう。そして今、僕はただ回顧する。今こうして、彼女と過ごした、どんな時間を思い起こしても、そこには全く、怒りや、苛立ち、憎しみの影がささない。いますぐ家に戻って、机の引きだしから彼女の写真を引っ張りだし、一日中眺めていたい気分にすらなる。きっと僕は、彼女が見せる、どんな表情をも、愛しく思うのだろう。

 それはただ薄っぺらで、上っつらな、弔辞のようなものだと思う。彼女が去ったあと、何度も何度も僕の中で検閲され、改訂され、全く本筋の見えなくなった寓話に等しいのだ。そこで仮に、彼女が僕にナイフを突きつけていても、今この場の僕を、彼女が切りつけることはない。幾度も整形手術を重ねて、デビュー当時の面影をなくした女優を、同じアイデンティティで眺め続ける観衆のように、或いは、フルカラーからセピアに変わった途端、突然美しさを増す横顔のように、これから僕が思い出す彼女には、どこにも彼女の本質が残されてはいないのだろう。

 

R238

 

「知来別」と地名の書かれた標識が目にとまり、「何と読むのだろう」という考えが、僕を現在に連れ戻す。ただ、まっすぐに伸びた道を茜の駆るオートバイが走り抜けてゆき、そのあとを僕が追いかけてゆく。
右手に伸びた海岸に打ち寄せるオホーツクの波音がヘルメットを貫いて響く。道の左側には、丘陵がせまる。小さな漁港から突き出した防波堤が、右手に見え、その向こう側で、水平線に、太陽が顔を出した。凪の海面をまっすぐに飛び越えてくる金色のスペクトルが、行く手に伸びた道と、その道を駆け抜けてゆく茜の姿を貫いた。行き場のない郷愁だけが、僕の魂を締め付けた。
 ある現実性の虚構をそぎ落とすと、そこに別の現実性が立ち現れる。しかし、それもまた虚構にすぎない。糊塗された虚飾を剥ぎ落とし、多様性の根底に、いつかは、単一で、単純な、なにものかを見据えられるだろうと、そんな必死の営みが、逆に虚飾を糊塗してゆく。ただ愛情に飢えた捨て猫なのだと、彼女はわかっていたに違いない。捨て猫だと認め、その弱さを曝け出し、いつ飢え死ぬかもしれぬ不安を叫び続けていたのだ。
「お願いだから私の求める答えで、私を愛して」と、彼女は咽び泣いていた。彼女に、その時々求めていた愛情は届かず、ついには、最後の逃げ場だった自分自身ですら、自分自身を打ち捨ててゆくことに気付く。

 

宗谷湾

 

 日の出の陽光は、海岸線をまだらに照らしだし、陽炎のように、道の彼方へ逃げていった。一昨年の夏、サロベツ原野で翠が捕らえようとした、逃げ水のことを考えた。それはつまり、抱きしめて愛そうとするたびに、すり抜けてゆく自分自身、明日へ敗走するだけの明日、約束のままの約束、そんな不条理な、僕らの存在そのものの原理だったに違いない。
「ナロードニキなの」と、去年旅立つ時に彼女は言った。それは「в(ブ) народ(ナロード)(民衆の中へ)」ではなく、正しくは「в(ブ) мир(ミール)(世界の中へ)」だったのだ。存在への不条理な詰問から解放されて、ただ過ぎ去るだけの叙情或いは叙景として、生を享受できるか、できないか、の賭けだったのだ。

 宗谷岬へ向かう道は、いったん海岸線を離れ、山間のくねった道を走る。茜はスピードを保ったまま、車体を深くバンクさせる。もの思いに油断すると、置き去りにされそうになる。朝露で湿った路面で、一瞬テールが流れて、ハッとする。「死」というものの、恐れがよぎる。僕等の感性は、馴れ合いから怖れまでの、なんと狭い振幅を往来するのだろう。どんな感性の昂揚も行き着くところは恐怖なのだ。そしてその恐怖を超えた所に初めて「死」が微笑んでいる。例えば寂寞だとか、憂慮やら、笑いやらは、この振り子の、どのあたりを揺れているだろうか。  

宗谷丘陵にて

 

 北限へ続く最後の丘陵を登りつめると、右手に大きくオホーツク海が開け、海原を渡ってきた強い風が、オートバイの足元を掬うように吹いた。左手の丘の稜線に立ち並ぶ風力発電の風車は、鈍調に回りながら、水平線から真っ直ぐに刺す陽光を照り返していた。
 うねりながら伸びた海岸線を、茜のオートバイが、駆け抜けてゆく。長い直線の坂道を下りきったところで、彼女は左のウインカーを瞬かせ、路側帯に滑り込んで、オートバイを停めた。僕も彼女の後について、オートバイを停めた。

宗谷岬にて

 

 茜はヘルメットを脱ぎ、それをバックミラーに掛けると、オートバイを降りた。
「気持ちいい」と、僕の方を振り返って微笑み、空を仰いだ。
 国道の海岸側は、ガードロープを境に崖になっていて、眼下に立ち並ぶテトラポッドには、波しぶきが打ち寄せていた。すぐ沖には小さな岩礁があり、カモメの一群が啼き合いながら、その周囲を飛び交っていた。太陽は、もうすっかり水平線の上に顔を出し、金色の光を海原に解き放っていた。茜は、腰の高さほどに張られたガードロープに手を掛けて、眩しさに眼をしかめながら、太陽を見つめた。
「ねえ・・」と、彼女は、僕の方を振り向きながら言った。
「ねえ、オートバイのテレビコマーシャルってほとんどないでしょう。なぜだと思う?」と、路側帯に停めたオートバイを指差しながら、言った。
 二台のオートバイの、シルバーとライトグリーンのタンクが、それぞれの色彩で、朝日を照り返していた。
「さあ、それだけ市場としての魅力がないっていうことかな」と、僕は答えた。
「ふうん・・」と、茜はつまらなそうに相槌を打ってから、
「ねえ、ここに電話ボックスがあったら素敵だと思わない?」と言った。
「誰が使うのさ?」と、僕は笑いながら答えた。
 茜はおどけた笑みを浮かべながら、「あなたよ、あなた」と、僕を指差して言った。

宗谷岬にて

 

「去年、夕暮れに、翠さんとここへ来たわ。去年ここでね、そのオートバイのコマーシャルを二人で考えようっていう話になって、ちゃんとストーリーを考えたの」と、茜は言った。
「恋人と喧嘩した男が一人でバイク旅にでるのよ。でね、ここまでやってくるの。CMの絵としては、夕暮れにオートバイがこの坂を北へ向かって下ってくるところから、始まるの」と、茜は楽しそうに、語り始めた。
「ここに電話ボックスがあってね、彼はオートバイを停めるの。周囲にはカモメだけが飛んでいて、電話で話す男のシルエットを遠くから、次第にズームアップして映し出す。もちろん彼は彼女に電話してるのよ。ちゃんと聞いてる?」
「うん、聞いてる。で?」
「でね、電話を終えてボックスからでてきた男は、『フッ』と笑うわけ。本当に軽く『ふっ』てね。でどうすると思う?」
「さあ、ただ走り去る?」
「そこで彼はね、宗谷岬を目前にしてUターンするのよ、素敵でしょ。で、またこの坂を上って帰って行くの。そこで、初めて、そのシチュエーションを説明するナレーションが流れるの。それまでの音声は、波の音と、カモメのなき声と、オートバイの排気音だけ」
「で、その肝心のナレーションてのは?」と、僕は尋ねた。
「本当の君に気づくまで1500キロ、だから、もうひとがんばり」
 茜はおどけた低い声で言った。
「どうどう?」と茜は、はしゃいで尋ねた。
「素敵だよ」と、僕は笑って答えた。
「でね、その後、翠さんと二人で、何度もリハーサルをしたのよ。一人が男性の役ね、もう一人はカメラマン、かわるがわる交互に役を代えて、本当、おなかねじ切れそうになるほど笑ったわ」
 茜はそういい終わると海の方を向き直り、ガードロープから身を乗り出して、両手を大きく広げた。海からは、崖に沿って強い風が巻いていた。彼女は両手を広げたまま、上体を崖の方に深く傾けた。
「やめなよ、危ないから」と、僕は言った。
「翠さんも去年こうして、遊んでたわ」と、茜は言って、余計に深く身を崖に傾けた。その時、彼女の足元が一瞬ぐらついた。
 慌てて僕は茜を抱きとめた。彼女は驚きに見開いた目で、僕を見上げた。やがて、彼女は、何かを諦めたような眼差しで、僕の瞳をまっすぐに覗き込んだ。それから、そっと、僕の胸に顔をうずめ、何度が大きく深呼吸した。
「どうして?」と、彼女は掠れた声で言った。
「なぜ?」と、潤んだ目で僕を見上げた。
 その「なぜ」が、翠の自殺の理由を問うものにすぎないなら、ひょっとして僕は何かを答えることができたのかもしれない。だが、茜の「なぜ」は、もはやそうした具体を離れ、生きる、ということを素描した、嘆息のような、疑問詞だった。
 僕は黙ったまま首を横に振った。やはり答えなどないことを、茜は了承した。
「さあ、帰ろう。今度は僕が前を走るから」と、僕は笑った。

 

 

 

 

 

宗谷岬

 

宗谷岬
宗谷岬

 

 

 

日本最北端の碑
日本最北端の碑

 

 

 

宗谷丘陵より樺太を望む
アルメリア駐車場より樺太を望む

 

 

 

間宮林蔵の彫像
間宮林蔵の彫像

 

 

 

宗谷岬近辺
R238とオホーツク海

 

 

 

宗谷岬へ至る道
宗谷岬へ至る道

 

 

 

宗谷湾
宗谷岬と利尻・礼文

 

 

 

R238と利尻富士
R238と利尻富士

 

 

 

宗谷湾にて
宗谷湾にて

 

 

 

宗谷岬の地図

 

 

 

てっぺんドーム
てっぺんドームから宗谷岬を望む