FIN

 

 オーナーに見送られてペンションを発ち、海岸沿いに続く国道を、僕と茜は、稚内へ向けて走り出した。空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降りだしそうだった。めずらしく風のない入り江には淡く霞が立ちこめていた。昨日たてた予定どおりに、僕は今日、稚内からのフェリーで礼文に渡るつもりだった。茜は稚内の手前で僕と別れ、旭川か富良野まで南下する。

 茜の細い肩が、きれいなリーンウイズで、オートバイごと傾き、カーブを抜けてゆく。その後ろ姿を僕はずっと眺めていた。この先で、まもなく、僕と茜は別れ、もしかしたら、いやおそらく、二度と会うことはないのだろう。僕は彼女の連絡先さえ知らない。出発の前に聞くつもりだったが、格好悪いというか、潔くないので、やめた。

 もし、翠の仕組んだシナリオどおりなら、と僕は考えた。今年の夏、僕と茜との間に起こった出来事全てが、翠のシナリオどおりなら、それはひと夏にして開き、ひと夏にして閉じる物語であろう。永らえようとすれば、輝きを失ってしまう、切なく苦い、そんな物語だ。

 

宗谷丘陵

 

 道は、中央分離帯のある、往復四車線に広がり、宗谷湾を右手に真っ直ぐ伸びていた。左手に稚内空港を通り過ぎたところで、茜は左手を挙げて大きく振った。僕はヘッドライトを短くパッシングさせて、それに応えた。交差点が近づき、左のウインカーが点滅した。茜が速度を落とすにつれ、彼女の後ろ姿との距離が縮まり、僕は茜の右隣に並んだ。

 交差点を左折する直前で、一瞬だけ茜は僕の方を振り向いた。ヘルメットのシールドの下で、彼女が微笑んでいるように僕には思えた。僕が小さく左手を上げて挨拶するのと同時に、茜は正面を向き直り、急峻に車体を傾け、交差点を左折した。茜の後ろ姿が消え、僕の前には、湿気に霞んだ往復四車線の道が長く伸びていた。

 道の行く手に、さっきまでの茜の後ろ姿がフラッシュバックした。それは、一昨年、サロベツ原野で逃げ水を追い続けた、翠の後ろ姿でもあった。彼女達の後ろ姿は、淡く霞んで、スノーポールと中央分離帯との消尽点へと、走り去っていった。

 

宗谷丘陵

 

 情けないことに、目頭が熱くなった。
「まったく、格好悪いの」と、僕はつぶやいた。

 中央分離帯の切れ目を見つけた。対向車は来ていなかった。後方を振り返ると後続車もなかった。僕は急ブレーキで減速し、3速飛ばしにシフトダウンした。ブレーキを放すと同時に、中央分離帯の切れ目へ、車体ごと右に倒れこんで、往復四車線をめいっぱい使って、Uターンした。右のステップが路面をこする鈍い振動が、車体全体に響いた。

 Uターンを終えると、アクセルを思いきりねじ込んで加速した。茜が曲がった交差点まで引き返し、決心して、彼女の後を追った。

 

宗谷岬付近

 

 牧場の中を緩やかにうねる道を、僕はフルスロットで駆けぬけた。霞は次第に深まり、ヘルメットのシールドが水滴に曇った。どれくらい走っただろう、遠く靄の中に、赤いテールランプが一つ、灯って消えた。ランプが瞬いたあたりまで走りきると、道は緩くカーブしていた。カーブを抜けると、また遠く靄の中で、さっきよりは明るく、テールランプが瞬いた。カーブがあるごとに、靄の中でブレーキランプが灯っては消えた。やがて、赤いテールランプが、靄の中に途切れることなく輝くようになり、間もなく、オートバイの後ろ姿が現れた。

 僕が追いついても、そのまま茜は結構なペースで走り続けた。しばらく後について走ったが、止まる気配がなかったので、僕は彼女を追い越した。追い越してから、左にウインカーを点し、路側に待避所を見つけ、オートバイを滑り込ませた。茜が僕に続いて停車するのをバックミラーで見とどけた。

 僕はヘルメットを脱ぎ捨て、オートバイを飛び降りて、彼女のそばへ駆け寄った。彼女は、クッチャロ湖で初めて出会った時と同じゆっくりした手順で、グローブを外し、ヘルメットを脱いだ。
「どうしたの?」と、茜はオートバイに跨ったまま、僕の顔をまっすぐに見て言った。僕は何も言わずに、彼女の両肩に手を伸ばした。華奢な肩、細い腕、僕は彼女を抱きしめたくて、抱きしめたくて仕方なくて、それでも、それが間違った対象なのかわからなくて、躊躇した。

「本当に子供みたいなのね」と、ためらっている僕を見て、彼女は言った。
「だから、切なさは深いほうがいいって言ったのに」と、黙ったままの僕の眼を、上目づかいに覗き込んで、彼女は微笑んだ。

 彼女は、両腕を僕の首に絡めて、引き寄せた。
僕は彼女の肩を強く抱きしめた。
それは、唇をかさねるだけの、淡いキスだったが、ずっと長い時間、僕らは、そうして離れずに居た。

 車が一台、冷やかしなのだろう、クラクションを鳴らしながら、通り過ぎた。
彼女はほんの数センチだけ、僕から顔を離して微笑みながら、
「あなたは夕べ、私を抱きそこねたのよ。わかる?」と言った。
僕は黙って小さく頷いた。頷くと額と額がまた触れ合った。彼女が笑い、それにつられて僕も笑った。
「一緒に来る?」と、彼女は尋ねた。
僕は首を横に振った。
彼女は呆れたように微笑んだ。
「携帯電話を出して」と、彼女は言った。
「翠の?」と、僕は尋ねた。
「いいえ、あなたの」と、首を振りながら、彼女は答えた。
言われるままに僕はポケットから携帯電話を取り出した。彼女は、右手でそれを受け取ると、左手で、ジャケットの胸ポケットから自分の携帯電話を取り出し、僕に手渡した。
「自分の携帯番号くらい憶えてるでしょ?」と、彼女は笑いながら、僕の携帯電話を、自分の胸ポケットにしまった。

 彼女はミラーにかけてあったヘルメット手に取り、それを被った。ゆっくりと片手ずつグローブをつけ、イグニッションキーをひねった。
「でも、心しておいて・・」と言って、彼女はオートバイを起こし、サイドスタンドを外した。
「一度拾った捨て猫は、どんなに懐かなくても、最後まで面倒みなきゃいけなのよ」と、彼女は笑った。それは翠の口癖だった。

 彼女はセルスターターを回してエンジンに火をいれた。排気音が靄の中に轟いた。
彼女はオートバイを発進させた。ゆっくりとクラッチを放し、アクセルを開きながら、振り向きもせず、彼女は走り出した。
彼女の乗るオートバイのテールランプは乳白色の霞の向こうに消え去った。彼女の走り去る排気音だけが、凪いだ海のさざめきのように、いつまでも優しく、耳に残った。

 夏はまだ、始まったばかりだ、と僕は思った。

 

 

宗谷丘陵

 

 

 

 

 

 

宗谷丘陵

 

宗谷丘陵の風車群
宗谷丘陵
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宗谷丘陵の道
宗谷丘陵の道

 

 

 

宗谷丘陵
宗谷丘陵にて

 

 

 

宗谷丘陵
宗谷丘陵

 

 

 

宗谷丘陵
宗谷丘陵にて

 

 

 

宗谷丘陵
宗谷丘陵にて

 

 

 

宗谷丘陵にて
宗谷丘陵にて

 

 

 

宗谷丘陵
宗谷丘陵にて