夏を泳ぐ碧

フェリー船上の彼女

 

 彼女からの絵葉書が舞い込んだのは、いつまでもぐずつき続ける梅雨に、いささか苛立ち始めていた、まだ夏とは呼べない、土曜日の朝だった。葉書の裏側は一面の写真になっていて、夕暮れの湖を映し出していた。

 逆光の写真の中央では、朱色に膨張した太陽がハレーションを伴って輝き、そこから放たれた茜色の光の帯が、夏の夕べの凪いだ湖面に照り返していた。湖面を煽りながら、幾重もの細波を弓なりに浮き立たせ、真っ直ぐこちらへ走ってくる光の帯は、その輝きが湖岸に届いて消尽する、ちょうどその場所で、二台のオートバイと二つの人影を、シルエットで描きだした。

 その人影に向かって放たれた、カメラのストロボの弱々しい閃光が、かろうじて、二人の女性の微笑んでいるらしい面立ちを、黄昏に抗って、照らし出している。その、向かって右側、ショートカットの女性は確かに、彼女だった。左側の髪の長い、彼女と同年代らしく見える女性は、恐らく、見覚えのない人物だった。写真の右下の隅には、撮影データとして、昨年の8月7日の日付と18時22分の時刻が白文字で刻まれていた。

 葉書の表には、宛名の他は何も書かれていなかった。切手には、「浜頓別」の消印が、今年の8月1日付で押されている。宛名の筆跡は右上がりで彼女のもののようにも思えたし、誰か、他の女性のもののようにも思えた。

「浜頓別」の消印から、写真の湖がクッチャロ湖であることは、すぐに察しがついた。僕自身、何度もここを訪ねたことがある。湖畔のキャンプサイトから眺望する夕景は美しく、かつてそれを、彼女に話して聞かせたこともあった。

 

船窓から

 

「これは私なりの『ナロードニキ』なの」

 昨年の夏、彼女は、フェリー乗船前に新潟港から架けてきた電話で、僕にそう言った。二年間勤めた職場を六月いっぱいで退職し、ひと夏をオートバイツーリングで過ごすべく七月半ば、彼女は一人、北海道へと旅立った。

 それ以降、一ヶ月半の間、彼女からの便りは何もなかった。こちらから連絡しようにも、携帯電話の電源すら、切られたままだった。

「これからフェリーに乗るの。すっきりしたわ、ありがとう」

 八月の末、ツーリングを終えて、北海道を離れる前に、彼女は苫小牧港の公衆電話から電話を掛けてきて、そう言った。それが僕の聞いた、彼女の最後の声になった。

 苫小牧を夕刻発の大洗行フェリーに、確かに彼女は乗り込んだ。彼女は特等の船室を予約していて、その部屋の鍵を、船員から受け取った。その晩、彼女はフェリーのレストランで、数人の船客と会話を交わしている。翌朝、日の出前、ある乗客が、フェリーの船尾から『白い何か』が落ちてゆくのを目撃していて、あとから振り返れば、それはひょっとして人影だったのかも知れないという。そしてその時刻以後、彼女を見たという証言はどこにもない。

フェリー船尾

 

 その日の午後、何事もなかったかのようにフェリーは大洗港に入港し、鍵のかかっていない彼女の船室のテーブルから、船員が鍵を回収した。彼女の荷物は部屋に置き去りになっていた。すべての車両が下船したあと、車両甲板には彼女のオートバイだけが、とり残されていた。

「フェリーで女性の転落事故」と、翌日の新聞は三面に小さく報道した。確かに、遺書も、遺言めいた言葉のひとつも残されてはいなかった。結局、彼女の遺体も見つからずじまいに終った。「普通失踪」というのが、法律上のコトの顛末らしく、向こう七年の間、彼女がどこにも姿を現さなかった時にはじめて、死亡したものとして取り扱われるということになった。

 届いた絵葉書の表と裏を交互に眺めながめながら、驚きでもない、懐かしさでもない、なんとも、つかみどころのない、厚ぼってりとした感慨に僕は飲み込まれていた。それは「諦念」と呼ぶに、程近いものなのだろうと思った。この絵葉書を受け取った僕が、どう考え、どう立ち回るにせよ、それはいずれにせよ、ただの茶番に落ち着くしかないのだという、そんな閉塞感だけで満たされた諦念だった。

 今年の梅雨は明けない、かもしれない。明けないでくれたほうがいい。郵便受けの前に立ち尽くしたまま、僕はそう思った。降り続く雨のしずくが軒を流れて、絵葉書の写真にしたたり落ちてきた。
乳白色の空を見上げながら、雨の中へ歩き出すと、しとしとと雨粒が顔を濡らした。髪の毛に沿って額を流れる、ひんやりとした、水滴の感触が心地よかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苫小牧港

 

苫小牧東港
苫小牧東港

 

 

 

苫小牧東港
苫小牧東港

 

 

 

船の窓から
船窓から

 

 

 

デッキ
デッキにて

 

 

 

船上にて
船上にて

 

 

 

港
港にて