夏の桜

野寒布岬

 

僕と茜は、その晩もう一晩だけ、宗谷のペンションに宿泊することにした。茜は明後日の晩、苫小牧からのフェリーで北海道を離れるので、明日は富良野あたりまで南下するつもりだと言った。僕は、とりあえず明日は、稚内からのフェリーで礼文に渡ってみようと思った。

夕食後の食堂で、他の宿泊客が退けるのを待ってから、僕と茜とペンションの主人の三人で、別れの、短い酒宴を上げた。翠の写真は何事もなかったかのように、元通り、食堂の壁のコルクボードに戻っていた。

酒宴の後、僕は風呂を浴びて、部屋に戻った。窓を開け放って、煙草を一本吸い、ベッドに横たわり、ここ数日の慌ただしい出来事を回想した。茜からの絵葉書、浜頓別の町並、クッチャロ湖の夕暮れ、このペンション、猿払公園、そして翠が写真の裏に残した言葉。それらすべての出来事を、何も解釈せず、ただ身体の奥に、深く染み込ませておきたかった。

軽い眠気に包まれ始めた時、誰かが部屋のドアをノックした。僕はベッドの上で上半身だけ起こしながら、「はい」と応えた。
部屋のドアが少しだけ開き、そこから茜が顔をのぞかせた。
「ごめん、寝てた?」と、彼女は言った。
僕は黙ったまま首を横に振った。
「お風呂からでたら、少し呑み足りないかな、と思って・・・」と、茜は両手に一本ずつ持った缶ビールを、肩のあたりで揺らしながら、微笑した。
「入って」と、僕は笑って答えた。
シャンプーの甘い香りと一緒に、茜が部屋に入ってきた。

彼女は白いミニのワンピースを着ていた。ノースリーブの肩にかけてあるバスタオルの端からは、彼女の白い肩が見え隠れし、そこから伸びた細い二の腕は、オートバイなどという頑丈な乗り物には、およそ似つかわしくなかった。両腕の手首の近くにだけ、グローブとジャケットの隙間が残した、淡い日焼けの跡があった。

 

 

彼女は缶ビールを一本僕に手渡し、もう一本をテーブルに置いた。そして窓際の椅子に腰を下ろすと、肩にかかったバスタオルをたくし上げ、湯上りの湿った髪を拭った。細く長いしなやかな指で髪を梳き、髪の隙間からは、端正な横顔が見え隠れした。
僕は彼女の動作に見とれていた。
「あ、ごめん、はしたない?」と、茜は、僕の視線に気づいて言った。
「なにが?」
「男の部屋で髪を乾かす女なんて・・」と言いながら、茜は缶ビールに手を伸ばし、プシュと音をたててプルタブを抜いた。
「いや。いやそれより・・・」
「それより、なに?」
「いや、ツーリングによくそんなワンピース持ってくるな、って」と、僕は笑った。
「寝巻き代わりよ、嵩張らないし。変かしら?」
「普通じゃないけど、慣れたよ。なにせ一昨年、翠はヒールのサンダルまで持って来てたから」
「私も、彼女を見習って、今年は持ってるわ。こーんな高いやつ」と、茜は笑いながら、両足を宙に突き出して、爪先をまっすぐに伸ばした。
ふと、窓の外でヒューという音がして、ロケット花火の光が、窓を斜めに横切った。窓辺に立って見下ろすと、数人の人影が海岸ではしゃいでいた。花火の淡い光が、彼等の姿を照らしだした。

「去年もあそこで、花火をしている人達がいて、翠さん、その花火を見て、『夏の桜』だと言ってたわ」と茜は、僕の隣に立って言った。
「夏の桜?」
「うん、夏の桜みたい、きれいねって」
 僕は茜の言葉を聞いて、彼女達がクッチャロ湖で再会する約束の日が、八月七日だったことを思い出した。
「ひと月遅れの七夕って言ったよね」と、僕は尋ねた。
「なにが?」
「ほら、あなたと彼女が、クッチャロ湖で今年の夏に再会しようって話」
「あ、ええ」
「本当にね、僕等の町では、昔の風習を引きずって、七夕は八月七日なんだ。で、その一月おくれの七夕の晩に、ちょっとした夏の伝統行事がある」
「どんな?」
「町外れの丘の上に、百八つの塚があって、そこに、子供達が松明の火を灯してゆく。ひとつひとつ、故人の霊を弔うために。で、そのあと花火大会。ささやかだけど露店も並んでね」
「素敵ね」と、茜は微笑んだ。
「彼女のお祖母ちゃんが亡くなった年の七夕にね、その花火大会に二人で出かけたんだけど、花火を見ながら、あいつ、泣き出してた。僕はずっと気付かないふりをしてたんだけど、花火大会の終わり際、ありったけの花火が立て続けに打ち上げられたとき、彼女、僕の腕をつかんで『見た?』って聞くんだ。『見えた、さくらの木?』ってね」
「桜の木?」
「うん。咲いては散る花火の背後に、一本の樹木が見えたらしい。その幹から伸びた、何百の腕の掌の上で、花火が瞬いていて、そして、ひとつ花火が散るたびに、幹はより高く、天を貫いてゆくんだと。彼女のお祖母ちゃんが亡くなったのは、その年の春で、ちょうど桜の散る頃だったんだ」
茜は僕の話を聞きながら、ずっと窓の外を見つめていた。時折、花火の光が、彼女の瞳に反射した。
「私ね・・・」と、茜は、言った。
「私・・・」と言いかけて、
「ねえ、こっちを向いて」と、唐突に彼女は身体ごと僕の方を向き直った。そして彼女は、
「ねえ、私きれい?」と、まっすぐに僕の目を見上げて、聞いた。
「・・・うん」と、僕は答えた。
「私、夏が大好きだわ。子供の頃も大人になっても、いつも夏が最高だった。でも、いつからか、なんとなく、夏が自分を素通りし始めている気がしてきたの」と、茜は瞳をくもらせた。
「明日の私は今日の私ほどきれいじゃない、あさっての私はもっときれいじゃない。今まで、欲しくてしょうがないけど、つかんじゃいけないものがあった。それをつかんだら、もう、生きてゆけないもの。でも今つかまなきゃ、二度とつかめないもの。いつかいつかって思っていて、でもきっともう私は、夏をつかめないの。わかってもらえる?」
 茜の問いかけに、僕は黙って小さく頷いた。
「私、長くお付き合いしてた男性がいて、去年の秋、結婚する予定だったの。でも、去年の夏、翠さんとの出来事があって、私なりに色々考えた。で、その後、彼に会ってね、『私きれい?』って聞いたの。『うん』って彼は答えたわ。それから、『三十年後の私も、もっときれい?』って聞いたの。『もちろんだよ』って彼は答えた。だから、結婚はやめた。ひどい話でしょ?」と、茜は笑った。
「よくそれで、彼は承服したね」と、僕は思わずふき出して、答えた。
「天使みたいな人だったから。でも、あなたは悪魔だって、翠さんが言ってた」と、茜は意味ありげに微笑んだ。
「天使の愚鈍さが許せない」と、いつか、翠が話していたことを僕は思い出した。彼女に言わせれば、天使の寛容は自己抑制ではなく、苦痛の感覚の欠如そのものなのだそうだ。悪魔は他者を傷つけることを生業としている以上、その職業的周到さで、悪意の標的以外の何者をも、意図なく不用意に傷つけたりはしない。その一方で天使たちは、その天真爛漫で愚鈍な感性と、無神経な善良さをもって、不用意に他者を傷つけている。微かな表情の変化にさえ敏感な悪魔には、天使の愚鈍な立ち振舞いのどれひとつもが、悪意として突き刺さる。しかし、彼が必死で天使を傷つけるべく放つどの毒矢にも、天使は痛みを感じない。矢が刺さったことにさえ気づかず、どんな毒も感じとらず、かつ天使は、自分が絶対に正しいという信念を曲げない。「私はそんな愚鈍な輩には、これっぽっちも関わりたくない」と、翠は言っていた。

 

宗谷の夜

 

「あなたに、会ってみたいって思ったの。あの絵葉書を送って、貴方が来るっていう確信はあった」と、茜は悪戯な微笑みを浮かべた。
「どうやら、得な役回りらしい」と、僕は苦笑いした。
海岸の人影は、大方の花火を打ちつくしたらしく、輪になって、線香花火を灯していた。
「ねえ、私、本当にきれい?」と茜は、僕の眼を覗きこむように見上げて言った。
僕は黙って頷いた。
「じゃあ、いまだけ、私を好きになって」と、茜は淡く微笑んだ。
「貴方も天使じゃないね」と、僕は答えた。
「きて」と、彼女は細い指で、僕の手を導きながら、ベッドに腰掛けた。
ミニのワンピースの裾からは、白い腿が覗き、そこから柔らかな膝の隆起を超えて、細い下腿が長く伸びていた。美しい爪先を見つめたまま、僕は躊躇した。
「ねえ」と、茜は僕の目を覗き込んで言った。
「ねえ、切なさは深いほうがいいの」と、彼女は、僕の手をそっと引いた。
彼女の、まだ濡れた髪の、甘く切ない香りの中で、僕は深呼吸した。

 

 

稚内

 

ノシャップ岬
野寒布岬より礼文・利尻を望む

 

 

 

北防波堤ドーム
稚内港北防波堤ドーム

 

 

 

氷雪の門
氷雪の門

 

 

 

稚内駅
稚内駅

 

 

 

稚内駅脇の寂れた路地
稚内駅脇の寂れた路地

 

 

 

稚内駅のホーム
稚内駅のホーム

 

 

 

日本最北端の駅
宗谷本線の線路はここで終わり

 

 

 

日本最北端の駅の標
日本最北端の駅の標

 

 

 

大沼
大沼から利尻を見渡す